こんばんは
その通りですよ~
家族に一人でも病人が出ると悲惨
極まりないです。
父が結核で 当時は現在のように
薬も確立されていませんでしたから
父も ヤケッパチだったのでしょう・・・
父親の我侭には家族が泣かされました。
イェモン家の健康と幸せを願って。
我が家はお金も名声も
ありませんが
家族揃って日々を送れることが
一番の幸せだと思っています。
道長の時代の屋台骨を支えていたのは
この時期間違いなく詮子だったと思います。
一族に災いが起こらないように
政敵ともいえる人たちを懐柔したり
忘れ形見の子供の世話を買ってでたり・・・・・・
やっと道長の時代も軌道に乗ってきて
詮子自身も四十になりました。
勿論、数え年の四十ですから実際は三十代の終り頃ですね。
今ではまだまだ若いと思いますが当時はもう
初老と呼ばれる年齢でした。
日頃の恩顧を感謝する意味合いも兼ねて
道長が盛大に「四十の賀」というお祝いを催した矢先
詮子は病の床につきます。
慌てて一条帝がお見舞いに来た時には
もう臨終間近の状態でした。
その後の道長の栄華を見る事も無く
あの世へと旅立っていった詮子ですが
その一生は一家にとってはかけがえの無いものだったでしょうが
女として、妻として、母として見てみるとき
幸せと思っていたかどうかは
誰にも知る事は出来ません。