世の中には「自分の子供さえ良ければ」という親が多いようで
所謂“モンスターペアレント”とか“ボスママ”とか呼ばれています。
初の女帝となった推古天皇もどちらかというと
そういう類の人だったような気がします
厩戸皇子(聖徳太子)が馬子と共に政治を行ったとしても
女帝の希望は飽くまでも我が子竹田皇子の即位でした。
しかし、何とした事でしょう。女帝が即位して間もなく
病弱だった竹田皇子は若くして亡くなってしまいます
現代でも子供に先立たれた親のショックは大変なものです。
ましてや、溺愛していた竹田皇子が居なくなってしまい
女帝は狂わんばかりに悲しみます。
女帝が生んだ男の子は他に尾張皇子(おわりのみこ)がいますが
長男の竹田皇子に掛けた期待が大きすぎたのか
尾張皇子自身がおとなしい性格だったのかは分かりませんが
あまり「歴史の表面」には出てこないようです。
そうそう、この時代に「任那日本府」を復興しようと
新羅に出兵させる計画があったとかいいますが、
そもそも「任那(伽耶。かや)」には
日本が派遣した政府の出先機関というものがあった事自体
疑問視される傾向があります。
この出兵は本当にあったのでしょうか?
日本は朝鮮半島に対して
本気で戦争を仕掛けるつもりだったんでしょうか???
馬子の出自が「百済人」との説もありますが
もし、そうならこの出兵は馬子の差し金かも知れません・・・
後に厩戸皇子は有名な“遣隋使”を派遣(小野妹子)し、隋の使者を迎えたり
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。
恙(つつが)無きや」
という有名な国書を送ったのもこの頃です。
一方、朝鮮半島との交流を推進する馬子と
外交面から徐々に溝が出来てきます。
そして、、、、
女帝の人生はというと、
竹田皇子だけでなく、厩戸の妃となった長女菟道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ)も
子供を生まないまま早世してしまったり
女帝自身は長寿ですが、次々に子供達に先立たれ
寂しい晩年を迎えようとしていました
そして、女帝が出した詔(みことのり)が物議を呼ぶ事になります
続きは また。
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