平安時代の女性はそれこそ
「家の中から一歩も出ない」
で暮らしているような印象ですが
当時は寺詣でが流行り、そういう所には割りと出掛けていたようです。
新天皇の
御禊に兼家の長女が奉仕する・・・
でも、それは時姫の所であって自分は無関係とばかりに
初瀬詣でに出掛けました。 
それでも、
後を追うように兼家が迎えを寄越すと、嬉々として帰途につき
あれ程拘っていた
御禊の為の支度も
今度は進んで手伝ったり 
禊の当日には自分も晴れの儀式に参加しているような気持ちさえしてきます。

単純ですね。というか、
「何事も自分が一番」でなければ承知しないんでしょう。 その最たるものが
「兼家」本人。
彼を生涯ずっと独り占めしたい
―自分の美しさと才覚ならばそれも出来る―
と考えていたのかもしれません。
現に時の左大臣の50歳のお祝いに作った
『絵屏風』に

歌を書いて欲しいとの依頼があったので
彼女でなくても自分の才能に酔ってしまいそうです。 尤もこの『絵屏風』の歌にしても彼女一人ではなく、
数人で献上した中から良いのを選んだらしく、
当の彼女の歌は二首しか採用されませんでした。
ここで、また
「不機嫌」
になってしまったのは言うまでもありません。
兼家の方では、当時の上流貴族の男達同様
何人もの女性を愛人として憚らない
この辺りが二人のすれ違いの原因だったのかも・・・・
お互いの気持ちは着かず離れず。どちらかというと
やはり、兼家は頻繁にはやって来ない
その理由は やっぱり
「女」。
近江と呼ばれる召人(夜のお相手をする侍女)と
故村上天皇の皇女「女三ノ宮」の若い二人が相手です。
道綱の母は・・・というと、この頃は30半ば位にはなっています。
さすがに「若さ」には勝てないと思うものの
嫉妬と悔しさでいっぱいです。

そこで、彼女がとった行動は・・・・・・・・
西山にある「般若寺」での「長精進」
「長期立てこもり」ですね。
進歩がないというか、やることなす事が全て
これみよがしで、必死すぎて 滑稽にさえ思えてきました。
続きは また。
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