女が小さい頃一度はあこがれる職業(?)といえば
『お嫁さん』
(今は違うのかな?でも、一度くらい思うよねっ!?)
少し大きくなると
「三高」(古語っ!!)とか条件が付いたりして・・・
平安時代「結婚青手」を探すというのは
結構大変な事だったようです
何しろ
いい所の「お嬢サマ」は屋敷の奥深くに隠れて
父親や兄弟といえども、直接顔を見せない生活です。
でゎ、どうやって
「結婚相手を探す」のでしょうか
大抵は家族や使用人
(乳母やら侍女やら従僕やら)が
「この家に年頃のウツクシイ姫がいる」と
それとな~く触れ回るんですねぇ
その噂を聞きつけた「オトコドモ」が
「求婚の歌」を届けてくる
「顔も見ないでプロポーズ」って
今じゃ考えられない事ですが、当時はアタリマエでした。
そして、認められて女の元へ「忍び込む」
(家中が承知でも堂々と入ってこない)
三日間通いつめて、晴れて「ご結婚成立」です。
そして、有名な
露顕(ところあらわし)の「三日夜の餅」が今で言う
「披露宴」
ですか。
道綱の母も最初はこのように
兼家からの
「ラブレター」
を受け取りました。
しかし、それは世間一般で語られるような
「香を炊きしめる」訳でもなく
「紫の薄様(薄い紙)」でもありません。
(この2点は恋文の必須条項でした。) 何の変哲も無い鳥の子紙に下手くそな字で
音にのみ聞けば悲しなほととぎす こと語らはむと思う心あり (噂に聞いた美しい方と言葉を交わしてみたいと思います)
でしょうかね? ロマンチックの欠片も無い・・・・・
でも、相手は
摂関家の御曹司(兼家は右大臣家の三男坊)では
返事をしない訳にはいかない・・・・・
語らはむ人無き里にほととぎす 甲斐なかるべき声なふるしそ (ここには話し相手になるような者はおりません)
かな? つれない返事にもめげずに兼家からのアプローチに、ついに 彼女が応じます。
でも、ここまでは
定石通り。皆このようなプロセスで結婚するのです。
この時、彼女は19歳。当時12~13歳で「婿」が決まる事を踏まえると
決して「早婚」ではありませんでした。
お相手の兼家にしても彼女が「初婚」ではなく
すでに時姫との間に一男(後の道隆)が生まれています。
「美貌」と「才気」で時姫から兼家を奪った


そう思っていた彼女はまた、
時姫と同じ境遇になって行くのです。。。。。。。 
続きはまた。
スポンサーサイト