夕方暗くなるのが早くなりましたね~

この間まで家に帰り着いても明るかったのに
今ではすっかり暗くなってしまってます(´・_・`)
思い出してみれば以前は
週末に
歴史話をしていたんですよね~(´∀`*;)ゞナンテコッタイ!
まぁ、ちょっと急ぎ足で

行きましょうか!?
文武天皇の早世によってまた後嗣問題が起こってきますが
成人した
天武の息子達が沢山居る中で
肝心の文武の遺児は藤原宮子の生んだ
首(おびと)も
他の子供たちもまだまだ小さくてとても天皇の位には就けません
当時は
成人(元服)以前に即位することが出来なかったからです!
せっかく持統が天皇は直系が継ぐ事を決めたのに
これは
大ピンチ!ですね/(^o^)\
だって文武には皇族の妃が居なかったから
そこで
阿閇が女帝として即位するのですが

コレがまた、ちょっと変則的というか・・
だって阿閇の夫草壁は天皇にならず
皇太子のまま亡くなっていますから
皇太子妃のままで皇后にはなっていないんですね|ω・`)ヤヤコシ!
ではなぜ阿閇が即位できたか考えてみると
持統が即位したのがそもそも
天武の皇后だから・・というより
皇太子で亡くなった草壁の代わりとしてだったので
文武の母親の立場で阿閇が女帝になる!という
こじつけでもしたのでは!?
勿論ド素人の戯言ですけどね~(〃ノωノ)ミノガシテ!
これには藤原不比等の思惑もあったでしょう
彼は
我が娘宮子が生んだ首の即位を望んでいたので
ここで天武の皇子が即位してしまっては
自分の孫が天皇になれませんから!

さまざまな波乱を含んで
阿閇の治世が始まります!
続きはまた!
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歴史話に一息入れたついで・・・でもありませんが
この間の日曜日に骨折

以来はじめての
展示会を見に上野までお出かけして参りました(^∇^)ノ
行ってきたのはまずこちらの


毎度おなじみ(?)トーハクの
「平安の秘仏」展です!
滋賀県の
櫟野寺というお寺さんの
日本最大坐仏十一面観音菩薩を間近で見てきました!Σ(゚д゚|||)デカッ!
すっごい迫力でしたよ~!
他にも重要文化財含む20対の仏像が展示されて
とっても見応えがありました

そしてもう一箇所、芸大の美術館へ
「驚きの明治工藝 」展

を見に足を伸ばしました
こちらも凄かったです

自在竜をはじめ

小さい自在蝉!これも動かせるそうです
あと、写真は撮ってこなかったんですが(残念)
自在蛇の動く様子がVTRで流れているので一見の価値があります!

他にも細かい細工が施された物や
s.jpg)

何とも小憎らしい表情のニャンコとかEtc・・

そして驚く事にこの展示品が全て
一人のコレクターが集めた物だとか!?
そして現代のように3Dプリンターとか
便利な機械が無かった時代に
こんな見事な物を作った職人の技術に
驚かされて参りました!!Σ(゚□゚(゚□゚*)
元明天皇のお話も前半を終え
ここら辺でちょっと一息入れてみようと思います

今年は台風に秋の長雨が重なって

連日スッキリしない日が続いていましたが
お彼岸も後半になってしまい
早くお墓参りに行かなければ!とあせる毎日で
昨日の土曜日にやっと行ってまいりました!!(=゚ω゚)ノ
本当ならば一家総出で車でお墓参り!という所を
何せ
秋分の日のあの大雨!Σ( ̄。 ̄ノ)ノ
土曜日は生憎エマちゃんがお仕事だという事で
私が電車で行くことにいたしました!

車で行けば良いじゃん!と思うんですが
我が家のお寺さんに入る道が狭い!

運転技術が全く上達しない私には至難の業(´;ω;`)
しかも我が松戸市にはおの東京都の大霊園である
八柱霊園
があるので
江戸川を渡るのに時間が掛かってしまうんです
そんなわけで(?)面倒がる
にーにを従えて
降りた駅が今話題の亀有!
先日最終回を迎えた通称「こち亀」こと
「こちら葛飾区亀有公園前派出所」一色です!

例えばエスカレーターの手摺から

こ~んな感じです
そして階段も

壁も


改札を出たら床にも

表に出れば

左下に小さな部長が!
まるで某携帯会社の三太郎シリーズの
大きくなる前の一寸法師みたい?
実は・・・・
このシリーズの写真が撮りたくて
わざわざ電車で出かけた!といっても過言ではないんです

ばぁちゃん!お墓参りをダシにしてごめんよ~!
お願いだから怒ってバチを当てないで頂戴~
ε=ε=(怒゚Д゚)ノ
秋分の日の昨日はあまりにも雨が降るので
結局お墓参りにいけませんでした~(泣)
明日の土曜日は何が何でも行ってこなければ!!
阿閇の息子珂瑠が即位して
後に望む事といえばやはり
皇子誕生ですが
何故かこの文武天皇には皇后がいません

当時の皇后になる資格がある・・といえば
皇族の血を引く皇女が妃になった場合です
祖母の鸕野讚良も天智天皇の皇女ですし
同じ父親を持つ阿閇ももし夫の草壁が早世せず
天皇位を継いでいたとしたら勿論
皇后になるのは阿閇だった訳です!
ではな文武には皇后が居なかったんでしょう?
皇后にふさわしい年頃の皇女が居なかったから?
一説には文武には天武天皇の皇女
紀皇女(きのひめみこ)が後宮に入っていたのだけれど
異母兄弟の
弓削皇子(ゆげのみこ)と密通をしたから
位を降ろされてしまったとか・・・・・

もしそうだとしても他に皇女が居なかったんでしょうか?
私はここにあの藤原 不比等
(ふじわらのふひと)が
一枚絡んでいるんじゃないかと考えています
何故なら!
文武の皇子であの有名な大仏を建立した
聖武天皇を産んだのが誰あろう
不比等の娘の
藤原宮子だったからです
宮子が皇子を出産しても文武の後宮に
皇族の血を引く皇女が入内してきて
皇子が生まれてしまっては天皇位に就くことが出来ない!ついでに言えば、文武に皇后が居なかった事が
その子聖武天皇の時代に皇族以外の女性
云わずと知れた
藤原の血を引く光明皇后になるので
皇后不在という一時代を経て
皇后位から
皇族の血筋という条件を
無かったことにした・・・という説もあるようです
不比等はそれだけでなく
若い文武と一緒に法律改正を手がけたり・・
太政天皇となった持統と阿閇の目には
その昔夫天武と自分を追放した
天智と不比等の父藤原鎌足の二人の姿に
重なって見えたかもしれません
年老いた持統が斃れいよいよ不比等にとって
我が世の春!

と思ったのも束の間
幼い子供達を残して若き文武は
たった24歳でその一生を終えてしまったのです!
残された阿閇たちはどうすれば?
続きはまた!
早いもので気が付くと秋のお彼岸で
秋分の日にはまたお墓参りですね~

雨が降らなければ良いけど・・・・
微妙なところでしょうね~(´・_・`)
天武天皇が亡くなり、大津皇子の謀反(?)の後で
法律を整えようとしていた矢先の草壁皇太子の死でした
その後鸕野讚良皇后は飛鳥浄御原令
(あすかきよみはらりょう)を公布
自ら即位して後に
持統天皇と呼ばれます。

持統天皇は太政大臣となった高市皇子と協力して
天武在世中より計画していた藤原京への遷都を行います
そしてこれから・・・!という時に
頼りにしていたであろう
高市も薨去してしまいました
たった一人になってしまった持統天皇の片腕として
珂瑠皇子が皇太子に付いてその役に当たるのが順当でしょうが
当時は元服前ではその任に就けなかったし
前にも書いたように
天武天皇の皇子がうじゃうじゃ居たので((((;´・ω・`)))
後嗣についても一筋縄では行きませんでしたが
何とか珂瑠皇子が皇太子に決まり
母親として
阿閇も政治に参加するようになったのではないでしょうか?
阿閇の気持ちは自分が異母姉持統天皇の片腕というより
わが子珂瑠の治世が平穏でありますようにと願って
少しでもその手助けが出来れば・・と考えていた事でしょう
珂瑠皇子が無事に15歳になって即位して
文武天皇となり、持統天皇が
太政天皇として
共同統治するようになった時には
やっと一安心!といったところでしょうか?
しか~し!
まだまだ波乱万丈は続きます!Σ(゚□゚(゚□゚*)
三連休ももうすぐ終りですね~!(´・_・`)ハヤカッタネ・・
私は昨日一年ぶりに美容院へ行って
髪を切って来ました~~~♪
とはいえ、短くはしないで梳いて貰っただけですが
それでも気分はスッキリサッパリ(* ´ ▽ ` *)
お年頃を迎えた阿閇皇女に持ち上がるのは
ご想像通り
縁談ですね~!
そのお相手というのが天武天皇と持統天皇の一人息子
草壁皇子(くさかべのみこ)二人の間には
氷高(日高)皇女(ひたかのひめみこ)後の文武天皇になる
珂瑠(軽)皇子(かるのみこ)そして長屋王
(ながやのおおきみ)と結婚する
吉備皇女(きびのひめみこ)と
子宝にも恵まれ幸せな日々が続いていました
天武天皇には高市皇子
(たけちのみこ)という年長の息子が居ますが
母親が宗形(胸形)尼子娘
(むなかたのあまこのいらつめ)で身分が低かったため
実質的には
草壁が長男になります(;゜0゜)ヤヤコシイ。。
長男が必ず皇太子になるという現代と違って
母親が皇族出身の皇子だけでも何人も居る!
しかも同じような年齢で草壁よりも目立つ存在に
皇后だった持統天皇・鸕野讚良皇女
(うののさららのひめみこ)の
早世した姉大田皇女
(おおたのひめみこ)の忘れ形見
大津皇子
(おおつのみこ)が居ました|ω・`)
鸕野讚良皇后にとっても大津は息子のような存在ではあったでしょうが
やはり
自分の腹を痛めた息子と
お気に入りの異母妹に
自分達の跡を継いでほしいと思ったでしょうね
それだけじゃなくてあの
「天上の虹」でも言ってましたが
大津の正妃は山辺
(やまのべ)皇女は
父親は天智天皇で血筋的には問題無いのですが
母方の祖父が蘇我赤江兄
(そがのあかえ)といって
鸕野讚良の祖父蘇我倉山田石川麻呂を
陥れた張本人
だったのですから!
幼い頃の自分達を不幸にした男の孫娘が
自分の跡を継ぐ事が許せなかったんじゃないでしょうか


一般的には草壁は大津と比べて
無能だとか
母・鸕野讚良がどんなに引き立てようとしても
一向にやる気の無いダメ男のように見られていますが
私は決してそんなことは無い!

彼なりに日本の未来を良くして行こうと頑張っていたと思います。(」*´∇`)」ガンバレ!
父・天武が崩御し
大津が謀反を起こしたとして
失脚した後でいよいよ
草壁が即位!?となったその時
阿閇の最愛の夫草壁は病死してしまいます!

幸せな日は長く続かなかったんですね・・
続きはまた!
今週も無事に一週間のお仕事が終りました!
明日からは待ちに待った三連休ですが
やっぱりね・・・毎度の事ながら
台風の行方が気になりますね~
どうか被害が出ないようにと願っている次第です
元明天皇こと阿閇皇女の誕生前後のお話です
日本は唐と戦をしていた百済を救援に兵を出しますが( ̄^ ̄)ゞ
白村江
(はくすきのえ・はくそんこう)において大敗します
その頃の政府は筑紫の朝倉宮へ行幸していたので
もしかしたら彼の地で生まれたのかもしれませんね~

その時の天皇は祖母に当たる斉明天皇ですが
戦の結果を待たずに朝倉宮で崩御しています
父・葛城皇子(中大兄皇子)は天皇に即位することなく
暫く
称制(即位せずに政務と行う)していました
その後近江大津宮で即位しますが
皇太弟とされていた
大海人皇子(後の天武天皇)ではなく
息子の大友皇子に跡を譲ろうと画策した結果
崩御後に壬申の戦が起こったのは有名な話ですね
このように阿閇皇女の子供から思春期の間は
何とも殺伐とした・・・というか
物騒な世の中だったんです!
戦も終って世の中がやっと落ち着いて来た時
阿閇皇女の周りにも
恋の花が咲き始めて来ます
では、続きはまた!