ワタシが「日本史好き」になったのは
平安時代の
ミヤビ
に憧れたからですが
実はこの時代の
男女(貴族と呼ばれる身分)は
意外にも
頑丈な体をしていました。
例えば
十二単で有名な女性達ですがその足元はというと
素 足
真冬でも
素足 です。
あの、
「篤姫」時代に皇家から将軍の正室になった
「和宮」さまもそうでした。
その事
(足袋を履くか履かないか)で
大奥側と一悶着あったそうです。
まぁ、素足とはいっても、長~い袴をつけるので
実際は足、、、見えませんが。。
スーパー冷え性のワタシにはとても真似できません。 そして、男性達のタフさといったら
なにしろ、女性を訪ねて行っても
おいそれとは家の中に入れてもらえない
最初は
「簀の子(すのこ)」今で言う
「ぬれ縁」に座って話をする
夏場はいいけど、冬はちょっと・・・なんて言ってる様じゃ
「平安貴族」の名折れですっ。
真冬の、雪が降り積もった所で
一晩中オハナシが出来なければ
寒そうな様子も見せず。優雅に。。。。。オーサムッ

しかも、これが原因で風邪なんぞ引こうものなら
「物笑い」にされてしまいます。
冷暖房完備でヌクヌクと暮らす
現代人には 出来ませんね。
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女が小さい頃一度はあこがれる職業(?)といえば
『お嫁さん』
(今は違うのかな?でも、一度くらい思うよねっ!?)
少し大きくなると
「三高」(古語っ!!)とか条件が付いたりして・・・
平安時代「結婚青手」を探すというのは
結構大変な事だったようです
何しろ
いい所の「お嬢サマ」は屋敷の奥深くに隠れて
父親や兄弟といえども、直接顔を見せない生活です。
でゎ、どうやって
「結婚相手を探す」のでしょうか
大抵は家族や使用人
(乳母やら侍女やら従僕やら)が
「この家に年頃のウツクシイ姫がいる」と
それとな~く触れ回るんですねぇ
その噂を聞きつけた「オトコドモ」が
「求婚の歌」を届けてくる
「顔も見ないでプロポーズ」って
今じゃ考えられない事ですが、当時はアタリマエでした。
そして、認められて女の元へ「忍び込む」
(家中が承知でも堂々と入ってこない)
三日間通いつめて、晴れて「ご結婚成立」です。
そして、有名な
露顕(ところあらわし)の「三日夜の餅」が今で言う
「披露宴」
ですか。
道綱の母も最初はこのように
兼家からの
「ラブレター」
を受け取りました。
しかし、それは世間一般で語られるような
「香を炊きしめる」訳でもなく
「紫の薄様(薄い紙)」でもありません。
(この2点は恋文の必須条項でした。) 何の変哲も無い鳥の子紙に下手くそな字で
音にのみ聞けば悲しなほととぎす こと語らはむと思う心あり (噂に聞いた美しい方と言葉を交わしてみたいと思います)
でしょうかね? ロマンチックの欠片も無い・・・・・
でも、相手は
摂関家の御曹司(兼家は右大臣家の三男坊)では
返事をしない訳にはいかない・・・・・
語らはむ人無き里にほととぎす 甲斐なかるべき声なふるしそ (ここには話し相手になるような者はおりません)
かな? つれない返事にもめげずに兼家からのアプローチに、ついに 彼女が応じます。
でも、ここまでは
定石通り。皆このようなプロセスで結婚するのです。
この時、彼女は19歳。当時12~13歳で「婿」が決まる事を踏まえると
決して「早婚」ではありませんでした。
お相手の兼家にしても彼女が「初婚」ではなく
すでに時姫との間に一男(後の道隆)が生まれています。
「美貌」と「才気」で時姫から兼家を奪った


そう思っていた彼女はまた、
時姫と同じ境遇になって行くのです。。。。。。。 
続きはまた。
チバジマは知事選挙を明日に控え
候補者が「最後の追い込み」に必死でしょうね。
今回は大昔の
「政治家の妻」でもあり、
母でもある人の紹介をします。
嘆きつつ独り寝る夜の明くるまは いかに久しきものとかは知る 百人一首にも出てくるこの歌の作者
名前は伝わっておりません。
この時代は
女性の名前をそのまま呼ぶ事はなく
肉親の役職名である
○○式部とか○○納言とか
親や夫の役職若しくは住んでいる場所等々・・ですね。
平安時代の代表文学「源氏物語」でも
本名が書かれている人物は居ません。
それは
、「本名を知らせる」事がタブーとされていたのであって、
決してあの紫式部サン(勿論本名ではありません)が
ロマンチックに浸って作ったわけではなく(実際、すばらしい呼び名のオンパレードですが)
こういう呼び方が
当 然だったからです。
この「道綱の母」は何故有名かというと、
歌が巧みで
(勿論、三十一文字の和歌です)文才もあり、
しかも
「王朝三美人」の一人とされるほどの美貌だったそうです。
そして、何よりも
「かげろふ日記」の作者として
現代にも通じる
“女の嫉妬”の辛さ・切なさを綴った人です。 
彼女の結婚相手は藤原兼家といい、平安時代の栄華を極めたと言われる
藤原道長のお父さんです。
尤も、道長は彼女の産んだ子供ではなくて
“もう一人の妻”
である時姫が母親です。
この兼家との馴れ初め
や、 結婚後、彼女が味わう「苦しみ」「悲しみ」については また、明日・・・