ちょっと寄り道しませんか?

家事に仕事に時々介護!たまにはゆっくり歴史も語りたいよね~

事件とその後

ボケっとしているうちに何時の間にか12月
それも中盤になっているとは。。。。Σ(ω |||)

白蓮さんのことも中途半端なので
駆け足になりますがその後を追ってみます

再婚して「炭鉱王の妻」になってもその実は
色々複雑な家族関係が重なって
気の休まる日もなかったのではないでしょうか?

満たされない生活の中で作った短歌は
私生活を赤裸々に歌い上げ
雅号の「白蓮」もこの頃から使い始め
歌集を自費出版したり次第に話題になっていきました

大正8年12月、戯曲『指鬘外道』(しまんげどう)を雑誌『解放』に発表
これが評判となって本にすることになり打ち合わせのために
翌大正9年1月31日『解放』の主筆で編集を行っていた宮崎龍介が別府の別荘を訪れます
当時龍介は7歳年下の27歳でした

ここでやっと運命の二人が出会いました

その後この境遇に耐えられない!救い出して欲しい!という手紙が
宮崎の元に届くようになり
大正10年8月に京都での逢瀬で宮崎の子を妊娠してしまいます

夫と別れて宮崎と一緒になるにしても今のように
慰謝料払って離婚・・・よはいかない時代だったので
夫の伝右衛門のお気に入りで博多花柳界で名高い芸妓であった舟子を
大金の4千円で身請けして廃業させ小間使いという名目で
自分の身代わりとして妾にしてから駆け落ちし
一方的に新聞紙上で絶縁状を送りつけるというのが
白蓮事件と後にいわれるようになったあらましです

その後は結核を患った夫に代わって家計を支え
姑と協力して家事育児をこなしていき
彼女を頼って逃げ出してきた吉原の遊女の
自由廃業の手助けをしたりしたのは
かつて伊藤家で同性を犠牲にした罪の意識があり
娼婦の救済はその罪滅ぼしもあったと見られます

男は外で妾を持とうが、子どもを作ろうが
何の咎めも無かった時代ですが
女が夫以外と密通(これもイヤな言い方だね)したりすると
それは立派な姦通罪になってしまいました

私は婚姻時に他の異性と親密になる事(所謂浮気)を認めるわけではありません
一度離婚してから仕切り直すのが筋だと思うんですけど
これは男女関係無くどちらも同じ立場だと思うだけです

白蓮さんは当時の女性たちにとっては憧れの的だったのかもしれませんが
それはやはり夫婦間でその貞操についての不平等さに対する
女性たちの不満の想いがあったからかもしれません
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女性の生きる道は・・

早いものでもうすぐ年末ですが
我家の次女子はサンタさんのプレゼントが待ち遠しくて
毎日のように「あと何日?」と聞いてきます

15歳で妊娠・結婚という運びになってしまった燁子ですが
出産後は婚家北大路家縁の京都へ転居となり
生まれた長男は姑の手元で育てられ
知人も血縁者も全く居ないところで孤独に暮らしていました

頼りになるはずの夫も燁子を庇うどころか
妻を顧みず女中に手を出したりする始末でした

燁子の訴えで現状を知ったじっかがやっと離婚を認め
20歳で実科に帰る事が出来ましたが
帰った後でも本邸に入ることは許されずに
母・初子の監督下に置かれ外出もできない毎日でした

その後本人の意向を差し置いて又もや縁談が進められたのを知り
乳母を頼って家出をしますが既に故人だったため
兄の義光夫妻に預けられることになりました

この兄嫁の家庭教師の出身校だった縁で
23歳で東洋英和女学校に編入学し寄宿舎生活を送りました

この頃に姉・信子の紹介で佐佐木信綱主宰である短歌の竹伯会に入門
年下の友人にも恵まれ慈善事業にも関心を持つなど見聞を広げました

明治43年3月に卒業した歳の11月になると
九州の炭鉱王といわれた伊藤伝右衛門と見合い
その時燁子は見合いだとは知らされていなかったそうです

伊藤は当時50歳と燁子とは親子ほどの歳の差があり
炭鉱労働者からの叩き上げという事もあり
二人の結婚は「華族の令嬢が売物に出た」と話題になりました

いざ結婚してみると前妻に子どもが居ないと聞いていたのに
妾との間に小学生の女児が居たり
妹の子どもである大学生や小学生の甥が養嗣子として居たり
義父が妾に産ませた子どもが居たり・・・・・etc・・・と
中々の大家族だったようです

当時結婚に際しては親の意思が大きく左右するのは書きましたが
男性30歳以上・女性25歳以上になれば親の同意がなくても結婚が出来たそぷです

でも自分で生活基盤を築ける男性はともかくとして
親の庇護の元で外に働きに出るなんて・・・
特に上流階級ではとても出来なかったでしょうから
周りの意見に従ってお嫁に行くしか生きる道は無かったのかもしれません

そんな時代に燁子はこの後で当時としては
一大スキャンダルともいえる事をしてしまいます

やんごとない

今度の日曜日は「立冬」という事でいよいよ冬突入な訳ですが
小春日和を通り越して昼間は汗ばむような陽気が続く関東です
本当に季節の移り変わりが分かり難くなってきてますね~

柳原白蓮こと本名燁子ですが1885年(明治18年)の生まれで
父は華族の柳原前光伯爵ですが母親は正妻ではなく
妾の一人だった(複数居たであろう事がムカツキますが)
没落士族の娘で柳橋の芸妓になっていた奥津りょう
この時点で既に今の我々には付いていくのが大変な気分です

この柳原という苗字に見覚えありませんか?

そう!あの!大正天皇の生母である柳原愛子典侍は父の妹
つまり天皇陛下の従妹になるわけです
大層やんごとないお生まれなんですね!!

生まれてすぐに本邸に引き取られ正妻の次女として入籍され乳母の元で育てられ
9歳の時に遠縁にあたる子爵・北小路隨光(きたこうじ よりみつ)の養女となって
養父隨光が女中に産ませた息子資武(すけたけ)と結婚することが決まりました

13歳で族女学校(現・学習院女子中等科)に入学します

同居する後の夫となる資武は7歳の年長ですが嫉妬深く
燁子が他の男と同席するだけで暴力を振るっていたといいますから
とんでもないDV野郎だったわけです

燁子は怖がってイヤがりますが当時「親の決めた相手と結婚」するのは
当然の事というか揺ぎ無い決定事項だったので帰る家も無く
15歳で妊娠したので学校も退学して結婚式を挙げました

この時代は男子17歳女子15歳で親の同意があれば結婚できましたが
今の男子18歳女子16歳に比べると親の同意はもとより
「本人の意思」については考慮されない場合が多々あったと思います

特にやんごとない身分であればあるほど
本人の自由意志なんぞは「何それ?美味しいの?」くらいに
打っちゃられている場合が殆どだったのでは?

その点では好いた・惚れたでくっ付いたり離れたりした
庶民の男女のほうが遥かに自由だったんだと思います。

最近では某やんごとない家系のお姫様が
長年の想いと遂げられてご結婚されましたが
あの記者会見(?)には驚かされましたね!

国民に苛められたから病気になったじゃない!って
宣言された時にはおクチあんぐりしちゃいました

あれだけ言いたい事を一方的に言い捨てて
勝ち誇ったようなお顔はちょっとインパクト強すぎました

まぁ、それでも渡米なさって過ごされるそうですから
どうかお幸せに・・・と言っておきましょう

お祖父様の訃報はお悔やみ申し上げます

浪漫の人

つい2~3日前は「暑い」が口癖でしたが
今週になったらイキナリ気温が下がって
涼しいを通り越して寒くなってしまいましたね~

私が「大正浪漫」と聞いてまず思い浮かぶ人がいます
当時のマスコミを巻き込んで繰り広げられたスキャンダル
「白蓮事件」の当事者の柳原白蓮さん(本名:宮崎燁子)です

この事件(?)を掻い摘んでいうと

1921年(大正10年)10月20日、伊藤伝右衛門は夫婦で滞在していた
東京府日本橋の旅館「島屋」から、福岡へ帰るために車で東京駅へ向かい
妻・燁子は親族を訪問する予定で東京に残り伝右衛門を見送った。
しかし、燁子はそのまま日本橋の旅館に戻らず、行方をくらませた(Wikipediaより)

そしてそのまま彼女は法学士宮崎龍介と駆け落ちしてしまい
新聞紙上で妻白蓮から夫への絶縁状が公開され
それに対して夫・伝右衛門から反論文が掲載される
マスコミのスクープ合戦が報じられたそうです

今で言う「泥沼離婚劇」ですね

今なら精々双方が弁護士でも立てて法廷で争う所でしょうが
何といっても大正時代では女性の地位が低い。。。というより
女性に人権なんて(笑)の時代です

今の感覚では本当に計り知れない苦労の挙句
夫との壮絶な戦いの末見事愛を勝ち取ったと見えますが
時代背景を考えると仕方ないといえるんでしょうけど
やはり何ともやりきれない思いがします・・・

先ずは彼女の生い立ちから少し見て生きたいと思います。


つづく

モダンなお年頃

大正~昭和にかけて私がすぐに思い浮かべるのは
所謂「モボ・モガ」といわれた人たちです

それまで和装が主だった若者達が
洋装に身を包んで闊歩する様は
巷の憧れだったのではないでしょうか?

特に女性は重たい髷をおろしてからも
髪は長い物・・というのが定説だったのが
断髪姿・・今でいうボブスタイルになり
ロングスカートの姿は画期的だったと思います。

勿論我が家も含む一般家庭では
まだまだ日本髪や束髪に和服姿が一般的で
モダンになるのは少し先のお話でしょう

現在は美容室でヘアカットをすると
こちらから希望を言わないで「お任せ」でお願いすると
何故か悉くボブスタイルにカットされるみたいで
私は髪が太くて多くて癖がある場合は
カットしたては兎も角一度シャンプーをしたら
忽ち横に広がりまるでヘルメットでも被ったようになるので
ある意味ボブスタイル恐怖症(?)になっています
まぁ、私が選ぶ美容室がこの傾向が強いだけで
そんな所ばかりじゃないとは思いますけど・・・

いまでも十分にお洒落で通用する人たちだったでしょうね
残念ながら私はファッションセンスが皆無なので
彼女たちのような「粋」な姿は真似したくても
無理なんだろうという自覚だけは持っています。、、(´;ω;`)

大正を生きた人

台風の影響で昼間は豪雨も降った関東ですが
夕方にはだいぶ回復して来たようで
明日の日曜日はお墓参りの予定なので
延期しないで良さそうなので一安心です

大正時代といえばその象徴は
やはり大正天皇でしょう

明治天皇の第三皇子として生まれ
母は明治天皇の典侍だった柳原愛子
成人したただ一人の男子だったそうです

生誕後まもなく大病を患いその後健康を取り戻しても
即位した後に健康状態が悪化してしまいました

そのため対象11年からは当時皇太子だった
後の昭和天皇裕仁親王が摂政となり
天皇は療養に入りますが回復することなく
15年という短い期間で大正時代が終ります。

在位期間が短いせいか父明治天皇や
息子の昭和天皇に比べると印象が薄い感じですが
病弱であっても天皇の責務を果たそうと
精一杯生きた方だと思います。

大正天皇の皇后さまは公爵九条家出身の
九条節子(さだこ)貞明皇后
奈良時代から長く続いた
藤原氏出身の最後の皇后という事です

それまでは大正天皇もそうですが
女官が次期天皇の生母というのも珍しくありませんが
大正天皇は初めて一夫一婦制で
皇后との間に昭和天皇をはじめとして
4人の皇子が生まれています。

そのご生涯は駆け足であったかもしれませんが
晩年には歴史に残る大震災もあって
波乱の人生だったのではないでしょうか?

鬼滅の時代・ロマンの時代

10月からいよいよ始まりますね~
「鬼滅の刃・遊郭編」
今回のシリーズは前回よりも早い時間帯なので
何とか頑張って起きていたいと思います。

鬼滅シリーズの時代設定は「大正」ですが
たった15年の間にもたくさんのドラマがありますね

我家のじぃちゃんが生まれたのがこの時代・・とはいえ
最後の最後15年生まれなので生まれてすぐ
次の昭和に変わってしまってますから
大正時代の事は何ひとつ知る由もありませんから
その前の親の世代が丁度でしょう

鬼滅の主人公の炭治郎の年齢設定が15~16歳位で
時代は大正とはいえ鬼殺隊の入隊試験の時に倒した鬼が
「47年目は慶応だった!」と言っていたのをみると
大正2~3年だと推察されます
そして当時の年齢計算は「数え年」という事を考えたら
その生年は明治32~33年だと思われます

なぜこんな回りくどい言い方をするかというと
我家のじぃちゃんの父親が生まれたのが
明治33年なんです~!
いや~~~びっくりですね~(ノω`*)ノ
しかも!生まれ育ったのが東京浅草
おまけに(?)今回のアニメの舞台となる吉原遊郭も
満更無関係ではないんですね~

そんな訳で(え?)丁度良い機会なので(どこが?)
不定期にはなりますがこの「大正時代」を
少し語って行けたら・・・と思っております

一応週末を目標にはしておりますが
何分忙しいのといい加減な性格故にどうなるか?
甚だ不安ではありますが
もし良かったらよろしくお付き合いお願いします~!

因みに・・デモクラシーやら難しいお話は
端から無理なので軽~く時代を通って行こうと思います!
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プロフィール

睦月

Author:睦月
イエローモンキーの曲が大好き!!
日本史大好き(古代~平安時代が特に)!
今一番気になるのは蘇我馬子だったりして(^o^;)
ゲーム大好き(ドラクエ限定)!
訳あってじぃちゃんと二人暮らしになりました。
介護なんて大それた事もしてませんが、日々仕事と家事で忙しく過ごしています。

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